大島’s Photo

 定期船の発着する港湾を中心に漁船が多く停泊しており、そこを中心として海沿いに家が建ち並んでいる。一本中の道に入ると、車も通れないほどの細い道が続き、ひしめき合って家が建っている。どの家も古い木造住宅が多く、長年潮風にあたり傷みも激しいが、その趣は昔の漁村風景として印象に残る。5つの島の内、人が住む島は1島のみで、平地が少ないことと、長年の気象状況を知る先人からの知恵で、本土が見える海沿いにしか住宅は建っていない。海と共に生活している様子がよく分かる。

大島の産業

 主な基幹産業は「漁業」であり、はえ縄漁、刺し網漁、素潜り漁、採藻、採貝等、その家系で代々引き継がれている。島で水揚げされる魚は、毎朝「八幡浜市水産物地方卸売市場」へ出荷されている。活ハモやアマダイ等は高値で取引され関西方面へ流通している。しかし、漁獲量低下や魚価の低下により、島を出て働きに出る人も出てきており、さらに高齢化も進み、担い手の不足から産業が衰退してきている。

 そんな中、廃校になった旧小中学校を利活用し、高齢者でも働ける場所として陸上養殖研究の取り組みが始まった。現在はスジアオノリ養殖やアワビ種苗養殖が成果を出している。また、ナマコエキスから作られた「大島めぐみ石けん」は6次産業化の第1号として完成し、道の駅やイベントで販売されている。スジアオノリ養殖でも収穫したものを加工し、「大島産あおのり」として色・香り・味が好評でイベントでも大人気となっている。

 もう一つの産業は「農業」である。八幡浜市はみかんの産地として有名であるが、島内でもみかん農家が数軒あり、市内の有名産地にも引けを取らないみかんを生産している。土地柄的に栽培には、通常の倍近くの手間がかかるが、出荷している共選の中でも高品質として知られており、関東方面へ流通されている。

 島内では野菜の栽培も行われている。特にじゃがいもや玉ねぎは甘みもあり美味しいことで知られている。昭和の終わりころまでは、島の山頂にまで段々畑が広がっており、麦やイモ等多く栽培され農協を通じて出荷もされていた。しかし、現在は高齢化と鳥獣被害により、生産者が減り、以前のような段々畑は見る影はほとんどなくなっている。出荷をする生産者もほとんどおらず、現在は各家庭で食べる程度の生産となっている。

大島の伝統行事・イベント

島内では多くの伝統行事やイベントが行われている。

 8月お盆に行なわれる先祖供養では、2日間に分けて行われる。1日目はカラオケ大会等の楽しいイベントをして、ご先祖様に「明るく元気な島へお帰りなさい」という思いから行われており、これに合わせて帰省する方も多い。2日目は盆踊りが行なわれ、レコード踊りと「高松踊り」を舞うことになっている。「高松踊り」は約300年近く続くもので、男性が「クドキ」という独特の節回しで詠われ、それに合わせてやぐらの周りで舞うというものである。また、お盆行事として続くもう一つ重要な行事が「船流し」である。初盆を迎えるご家族が、その年亡くなった方が極楽浄土へ行けるようにと願いを込めてその方に見立てた人形を製作し、帆掛け船も制作しその船へ人形を乗せ、島の西の沖合からその船を流すものである。この行事を行なっているのは大島とあと1地域程度のみとのことである。

 10月には秋祭りが開催される。初日夜には夜神楽があり、県指定無形民俗文化財の「川名津神楽(八幡浜市川上)」による舞い奉納があり、夜遅くまで続く。2日目は神輿巡礼があり、牛鬼1体と神輿2体が島内を練り歩く。また、島では途中で漁船に乗せ、海岸線に沿って練り歩くという他地域ではあまり見られない光景を見ることができる。人口減少と高齢化で神輿の担ぎ手不足が毎年心配されており、帰省客も一緒に担ぐことが続いている。

 その他にも、文化祭やミニ運動会、カラオケ大会等島民総出で楽しむイベントも多くあり、皆が集うキッカケとして続いている。

大島の日常と暮らし

 島内を歩くと、色んなところから声がかかる。仲の良いご近所が日向ぼっこをしながらおしゃべりをする場面をよく見かける。そういう場所が島内に数か所あり、島の人はおしゃべりな人が多く、仲の良さを感じることができる。夕方になるとウォーキングに出かける人も多くいたり、高齢者でも畑仕事にと自転車に乗り、急な山道を上がり、一仕事するという姿も見かけ、足腰の元気な人がとても多いようである。

 娯楽の少ない島では、将棋や碁を打ったり、カラオケが好きな人が多い。皆が集う場所を求めているのかもしれない。

 また、昔ながらの漁村ということもあり、漁師が仕掛けを作ったり、網を直したりしている場面を見かけることも多くある。漁師は寡黙な印象もあったが、話すとどの方も気さくで優しく色んな話をしてくれる。お願いごとがあっても、嫌な顔せず引き受けてくれたりと、とても優しく心強い。

 離島というハンデもあるが、無いものは自分たちで何とかしようとすることにも驚かされることがある。その1つに龍王神社の鳥居を作ってしまったことだ。完成品は高価で運送費もかかる。そこで、材料だけ購入し、塗装から組み立てまですべて島内で済ませてしまった。完成度の高さは是非見てもらいたいものだ。

大島の昔写真

 島の方から昔の写真をお借りした。その一部を掲載する。

 昭和30年代後半から40年代はとても繁栄していた頃だろう。夏には海水浴客で溢れ、出店も多く並び、1シーズンで約2万人の来島者がいた年もあったそうである。昭和50年代後半以降から、近隣に大型プールができたり、サメ出現問題があったりした結果、海開き行事もなくなり、近年は帰省客の方が泳いでいるのを見かける程度である。

 この頃はまだ海岸線は整備される前で、生活道は1本のみだったようである。

 昭和31年に電気工事が終了し、点灯式が行われた。この頃はまだ上水道は整備される前で、島内にある数か所の井戸水を大切に使っていたそうである。ただ海が近いこともあり、場所によっては多少のしょっぱさはあったとのこと。昭和40年代に赤痢が流行し、給水船による運搬を開始、その後慢性的水不足解消のため、貯水槽設置や上水道が整備されたが、昭和58年に対岸より海底送水管による簡易水道が完成し、各家庭に上水が完備され給水船は廃止となった。

 大島には以前、武家屋敷が存在していたそうだ。これは開島した庄屋さんの家だったようであるが、現在は跡地に農協支店と大島総合開発センター(旧保育所、公民館、現診療所等)が建てられている。また、昭和30年ごろの話では、郵便局、農協・漁協の支所の他、衣料品店、履物店、米・酒店、理髪店、美容院、大工、樽屋、鍛冶屋、精麦所、縫製工場、雑貨屋、旅館、映画小屋等もあり、大抵のことは島内で済ますことができたそうである。現在は、簡易郵便局、農協、漁協、米・酒店、民宿が残る程度である。

昭和38年ごろ

大島港内

昭和38年ごろ

大島港を望む

昭和41年ごろ

願海寺より大島港内

昭和38年ごろ

海水浴客で賑わう

三王島周辺

昭和38年ごろ

海水浴客で賑わう

三王島周辺

昭和41年ごろ

海水浴客で賑わう

三王島周辺

大島の風景